伊豆下田ペリーロードから文明開化の風を追う

伊豆下田ペリーロード Artwork

 

世情風刺。政治やら何やらで色々あると、決まって出てきて面白い。風刺漫画が特に好きです。
顔がすごいデフォルメされてて、笑いながらよく見ます。

漫画以外では江戸時代の中期以降、流行した狂歌も風刺をよく効かせていて面白いです。五七五七七の音で構成した滑稽ユーモアあふれる短歌で、もちろん風刺もやっちゃってます。

世情風刺狂歌

 

泰平の眠りをさます上喜撰、たった四盃で夜も寝られず

幕末の黒船。幕末は人気ですよね。人気過ぎて大河ドラマなんかでやりまくってるから、もうええわ!感もたまにありますが。

けど、好きですよ私は。あんまりやられると拗ねちゃうのよ、私。めんどくさい奴でごめんなさい。

この狂歌はとても有名です。昔、教科書にも載ってたなあ。やっぱこれよ!でも、一時期教科書から抹殺されてたらしいんですよ。
黒船のときに詠まれたのは怪しいんじゃないか説が有力となった時期があって。

そのときの学生諸君。私から見たら、切なすぎるゼ!!
教科書に載ってないとかありえんですわ。

しかし、今や歴史は塗り替えられた!
黒船来航直後に詠まれたという物的証拠が後にあがったんだぞ。めでたしめでたし!嗚呼、良かった。

東京で書簡が見つかったから。

黒船とペリー

ペリーてさ、日本ではすごい有名人ですよね。あんな激動の時代にいきなり黒船なんかに乗ってやってきちゃってさ。版画に描かれたペリー。なんてすごい形相。
そして、東インド艦隊司令長官 何ともカッコ良い肩書き付きです。

あと、これはよく言われる話ですが、ペリーはアメリカだと、知ってる人は知ってるという知名度らしいです。

ペリーは日本には2回やって来ていますが、2回目は前回の倍の数にあたる船を率いてやってきています。1回目を圧倒する数の力にも、さぞ当時の日本人はビビったでしょうね。

ペリーの乗っていた旗艦サスケハナ号てのがあるんですけど、私はこの名前には昔からずっと強烈なインパクトがあります。
漢字で無理矢理、書こうもんなら佐助花号とか佐助鼻号みたいな感じじゃないですか。佐助の愛でる花か、佐助の立派な鼻とか想像してしまいますよ。

だって、俺は日本人だ!サスケと言ったらこうなるやろて。

しかして、その本当の意味は、、、

アメリカ原住民の言葉で「広く深い川」を意味するそうです。

開国

フィルモア大統領の親書を携えたペリーはアメリカ側全権として、日本側全権は林大学頭によって、日米和親条約を締結しました。
この条約によって、下田箱館を開港することになり、日本の鎖国終焉となりました。

嗚呼、こうして日本はオープンになっていくのであります!

ペリーロード

鎖国以来、日本で初めての開港場となった下田。

その日、ペリーは下田に来航していました。条約締結後の具体的な取り決め、交渉をするために。
船から降り立ち、ペリーはある場所へと歩いていました。
ペリーというか、ペリー提督御一行様と言った方が良いですね。ズンズンズン!エイホー!

ペリー提督一行は了仙寺というお寺に着きました。

後に日米和親条約の付帯事項としての、下田条約が締結されました。


 

ペリー提督一行が歩いたこの道はペリーロードと呼ばれるようになりました。

  • 平滑川に沿って続く石畳の道。
  • なまこ壁伊豆石造りの町並み。
  • 石造りの洋館、古民家ギャラリー、カフェ。

伊豆下田ペリーロード

どこか異国情緒を帯びながら、文明開花の風を追ってみようかな。

日米和親条約は日本とアメリカの思惑のもとに締結されたと言っても良い。
日本は清国がアヘン戦争でイギリスに負けたから、ビビるところがあった。欧米列強の圧力をうまいことかわさないといかんなあと。 アメリカは捕鯨や清国との通商のために、安全に寄港する場所が欲しかった。

歴史ロマン。イエイ!

 

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